BBB MAGAZINE

  • MotorCycleDays

    2021.03.10 / vol.91

    北海道の大地と旅人が教えてくれたこと「バイクと旅した40年物語」~03~

CREDIT

    • ライター
    • 執筆

    藤原かんいち

    • 撮影

    藤原かんいち

  20歳のとき中型二輪免許を取得。今年60歳になるのでバイクとの付き合いは40年になる。4度の日本一周、2度の世界一周など、そのほとんどの旅を小さな原付バイクで実現してきた。バイクと旅は僕の世界を広げ、間違いなく僕の人生を豊かにしてくれた。
  これまでの旅が実現するまでのストーリーや思い出、実際のバイク旅での出来事、さらに40年間の世の中の変化など。僕の半生とバイク旅を年代と共に振り返りながら、『バイクと旅した40年物語』として語り綴っていきます。
前回は専門学校時代のバイクの思い出、そして中学生時代から夢だった日本一周を実現するまでの話でした。今回はその続きです。

第3回:北海道の大地と旅人が教えてくれたこと

自転車少年時代からの夢だった「日本一周」をバイクで実現させた翌月、印刷会社にグラフィックデザイナーとして再就職をした。毎日仕事をしながらも、旅熱は体のどこかでゆらゆらと燃え続けていた。

日本一周をしたのは1984年。当時の北海道には未舗装の国道があった。三国峠も、ナウマン国道も、増毛国道も、オロロンラインも、未舗装があちこちに残っていた。未舗装を荷物満載のロードバイクで走るのは難しいと思い、泣く泣くコースを変更したことが何度かあった。そんな道をオフロードバイクで走り抜けてきた人に出会うととても羨ましく思っていた。

当時、オフロードバイクが大人気だった。ホンダのXLXやパリダカール、ヤマハのDT、XT、スズキのDR、カワサキのKLなど車種も豊富だった。日本一周の経験から、次は大自然の中をオフロードバイクで走ってみたいと思うようになっていた。いつも通っているバイク屋の兄さんに「安くていいオフロードバイクが入った連絡して!」とお願いをしていたところ、しばらくして電話が入った。

数年前の古いXL250Sだったが、程度よくカスタマイズされていて、値段は12万円と破格だった。これは買うしかない。持っていたお金を全てかき集め、手に入れた。念願のオフロードライダーの仲間入りだ。それから週末になると関東周辺の林道を走りに行った。同時にオフロードヘルメットやゴーグル、モトクロスパンツ、オフロードブーツなどの用品も揃えて行った。デコボコ道や砂利道をハイスピードで走り抜けて行く。舗装路を走るツーリングとは違う緊張感。全身を使ってバイクをコントロールする醍醐味を感じた。また大自然を近くに感じる林道ツーリングは面白く、奥が深かった。僕はオフロードの魅力にどんどんハマっていった。

オフロードバイクは世界をさらに広げてくれた
オフロードバイクは世界をさらに広げてくれた
冬季に本州最北端の大間崎を目指したこともあった
冬季に本州最北端の大間崎を目指したこともあった

丁度この頃から、テレビの特番などで世界一過酷と言われる「パリダカールラリー」が放送されるようになった。サバンナを猛スピードで駆け抜けて行くバイク、砂丘をジャンプして大破する車、スタックする四駆を砂まみれになって押すドライバーなどなど、アフリカを舞台に繰り広げられるドラマに釘付けになった。

関東の林道はほぼ走りつくした僕は、パリダカの影響もありもっとすごい大自然の中を走ってみたいと思うようになっていた。そこで浮かび上がったのが北海道。豊かな自然が広がる北海道には、関東にはないスケールの大きな林道やロングダートがたくさんあるはず。よし決めた、北海道ダートを徹底的に走りまくろう。

再び節約、貯金の日々が始まった。勤めていたのは文京区の春日にある家族経営、社員4人だけの小さな印刷会社だった。社長が250ccのバイクを持っていて、製版所や印刷所へ納品するときはそのバイクを使うことができた。仕事はデスクワークがメインだったが、仕事のためにバイクに乗れるのは嬉しかった。職場仲間も明るくていい人ばかり、居心地の良い職場だったが、1985年の春には北海道を走るために退職。辞める時は社長が「旅が終わったらまた雇ってあげるよ」と言ってくれたのは嬉しかった。
北海道の旅はダートロードを2000キロ以上走ることに目標を定めた。宿泊もできる限りキャンプ、オフロードライダーらしい、よりワイルドな旅を目指すのだ。

オフロードウエアに身を包み北海道を目指した
オフロードウエアに身を包み北海道を目指した

1985年6月3日出発。下道で青森まで走り、フェリーで函館に上陸した。道南から林道をいくつか繋ぎ、襟裳岬経由で帯広へ向かった。帯広駅に着くとカニの家がなかった。どうやら時期が早すぎたらしい。楽しみにしていたのでがっかりした。6月の北海道は関東の冬並みの寒さ。どこかいいところはないかと思っていいたところ、電柱に「やどかりの家1泊500円」の貼り紙。行ってみること小さなビルの1階にあり、部屋にはストーブがあった。助かった。

1日のダート走行距離は40キロ、40キロ、0、40キロ、0、70キロ、130キロ、150キロ、60キロ、40キロ...順調に増えて行った。

日本海に浮かぶ利尻島をバックにタイマー撮影
日本海に浮かぶ利尻島をバックにタイマー撮影
50キロ以上のストレートダートが続くサロベツ原野
50キロ以上のストレートダートが続くサロベツ原野

羅臼に着くと1年前にお世話になった漁師さんを訪ねた。相変わらず真っ黒に日焼けしていて元気そう。去年泊った空き家は、今年は職人が寝泊まりするため旅人は泊まれないという。残念がっていると、職人が来るのは明日だから「今夜だけ泊まっていきな」と親切に言ってくれた。去年、旅人仲間と過ごした部屋にひとりで横になる。みんなどうしてるかな? 一年しか経っていないのに天井を眺めていると、なんだか遠い昔の出来事のような気がした。

地平線が見える展望台がある開陽台へ行くとすでにテントが3張り。ライダーがふたり、ひとりはヒッチハイカーだった。みんなここをベースにして周辺をめぐるというので、僕も同じようにテントに荷物を残し、近郊のダートを走り回った。夜はみんなで集まり一緒にジンギスカンを作って食べた。昨日まで知らなかった同士が偶然同じ場所に集まり、同じ時間を一緒に過ごす。そんな時間が好きだった。

開陽台キャンプ場。この後みんなと各地で再会した
開陽台キャンプ場。この後みんなと各地で再会した

当時は北海道の旅人の間では"3大バカキャンプ場"がよく話題になっていた。大沼キャンプ場、鳥沼キャンプ場、羅臼国設キャンプ場の3つが、バカな旅人が集まる面白いキャンプ場として知られていた。開陽台を出た5日後。バカキャンプ場のひとつ、羅臼国設キャンプ場を訪ねた。噂通りまだ6月だというのに、たくさんのキャンパーでにぎわっていた。サイトを探していると「おーっ、かんさんも来た」「あー、来た来た!」聞き覚えのある声が響く。約束もしていないのに開陽台のメンバーが3人、テントを張っていた。懐かしい再会。さらに別のキャンプ場で会ったライダーもいたり、キャンプ場は旅人の同窓会のようになっていた。

夜になると焚き火を囲みながら、〇〇温泉は絶対行くべきだとか、〇〇キャンプ場は変な主がいて最悪だったとか、噂話で盛り上がった。2日目、買い出しに出ようとしたら、まさかのパンク。直していると仲間がどんどん集まってきた。あーでもない、ここはこうするんだと、みんなが手伝ってくれる。ありがたいことに、あっという間に直ってしまった。ひとりでやっていたらどれだけ時間がかかっていたかわからない。持つべきものは友だち、助け合うことの大切さを実感した。

2週間後にはもう一つのバカキャンプ場、富良野にある鳥沼キャンプ場を訪ねた。到着するとすでにたくさんのテントが張られていた。数の割には人の姿が少ないと思ったら、みんなここに寝泊まりをして昼間はバイトへ通っているんだと教えてくれた。トイレへ行くと、外壁に農作業員バイト募集の貼り紙があった。僕の場合は資金が貯まった旅に出るという感じだが、そんな旅の仕方もあるのかと感心した。顔なじみの羅臼のメンバーも何人いたので、僕もここをベースにして周辺の林道をめぐることにした。

夜になるとみんなで焚き火を作り、宴会。全国各地から集まった旅人。社会人を数年経験した20代がほとんど、社会の矛盾を語ったり、お互いの将来の夢を聞いたり。本音で語り合った。とにかくみんな自由で個性的。普通に生活をしていたら出会わないタイプの人間ばかり。何物にも縛られないし、大人が作ったおかしな常識にも迷わされない。どこまでも純粋で、不器用なヤツばかりだった。

旅人の輪に九州に奥さんと子供を残し、冬は沖縄、夏は北海道の放浪の旅をしている年上のおじさんがいた。最初、その話を聞いたときは一緒に暮らさなくていいの? 家族がいるのに、ちゃんとした職に就かなくていいの? 疑問だらけだった。ある日おじさんに話を聞くと「うち家族の場合、なぜかこの状態の方がうまくいくんだよ~ ぐははは...」と明るく笑った。結婚もしていない僕には理解できなかった。だがそんなことは関係なく、歳の差を越えておじさんと過ごす時間は楽しく、笑いが絶えなかった。

そんなある日、キャンプ場に最新の高性能バイクに乗った男が現れた。おじさんと同じ歳くらいだろうか? バイクウエアも高級ブランド。大企業に勤めていて、今回は休暇を使っての北海道ツーリングだと自慢した。おじさんと正反対。話をするとどれも通り一遍の内容ばかりで、驚くほどつまらなかった。悪い人ではないが、僕はなぜかこんな風にはなりたくないと思った。

旅でいろんな人と出会い、確信したことがあった。それはいろんな旅があるように、働き方も、生き方も、幸せに感じることもみんな違うのが当たり前。大切なのは周りの人と同じような生き方をしているかどうかではなく、本人が幸せを感じているかどうか。幸せや生き方の基準を決めるのは世間ではなく、自分自身なのだ。

当時は無人駅に宿泊したこともあった
当時は無人駅に宿泊したこともあった
支笏湖の周辺には未舗装路がたくさんあった
支笏湖の周辺には未舗装路がたくさんあった

鳥沼キャンプ場では7-~8人の仲間と一緒にいることが多かった。出身地は九州、関西、関東とバラバラ。共通点はいま旅をしているということだけだった。この年は雨が多く、2日に1日は雨という感じだった。激しい雨の日はバイク移動はせず、屋根のある炊事場で昼ごはんを一緒に作って食べたり、仲間とおしゃべりをして過ごした。

ようやく晴天の日が来ると桂沢湖、夕張、占冠を繋ぐ170キロのダートルート走破へ出かけた。北海道には本州にはない40、50キロ以上も続くスケールの大きなダートがたくさんあった。僕は雨で動けなかった日のうっ憤を晴らすように走りまくった。

この年の北海道は雨が多かったことを覚えている
この年の北海道は雨が多かったことを覚えている
テレビドラマ「昨日悲別にて」のロケ地に立ち寄る
テレビドラマ「昨日悲別にて」のロケ地に立ち寄る

当時はカーナビもスマホもなく、地図だけが頼り。実際に行ってみると道が見つからなかったり、通行止めで通れなかったり。想像以上に悪戦苦闘した。結局1日で400キロ近く走ることになり、途中で夜になってしまった。普段なら不安なのに、キャンプ場で仲間が待っていると思うだけで、力が湧いてくる。長く走り続け。遠くに鳥沼キャンプの明かりが見えたときは嬉しく、仲間の顔を見たときは心からホッとした。

総走行距離1万キロ、ダートロード2000キロを走り切り、約2か月間に及ぶ北海道の旅は終わった

1985年の旅で使っていた地図がまだ残っている
1985年の旅で使っていた地図がまだ残っている
ダート2000キロで走った道程が描かれている
ダート2000キロで走った道程が描かれている

日本一周の旅は全国を走り足跡を残すこと。北海道の旅はダートを2000キロ走ることが目的だったが、実際に記憶に残っているのは、個性的な旅人たちとの出会いだった。そして僕はこの旅で人生を自分らしく生きるための道標を見つけたような気がした。

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